2015年10月24日

錦秋の秋  そこまで来たよ

ブラナガノ シリーズはまだ続きます
私が 一番 力を入れているものですから…face01

ちょっと 息抜きしましょう

で  錦秋のもみじの切り絵はどうでしょうか?

公園へ行って もみじの葉を採ってきて
これを 透き通った紙(トレース紙)の下に置いて
上から 鉛筆で下絵を描き
次に色紙を敷いて 切り抜く

もみじの葉は すぐ萎れてしまうけれど
切り抜いた色紙のもみじは ずっと
原色のまま

いいね グッドです icon22


 

上 一番左は        イロハモミジ
上 左から二番目の赤は  ハウチワカエデ(羽団扇楓)
上 左から三番目の橙は  カジカエデ(梶楓)
上 一番右は        オオイタヤメイゲツ(大板屋名月)
下 一番目左は       オオモミジ
下 左から二番目の緑は  もう一度登場 イロハモミジ
下 左から三番目に紫は  カラコギカエデ(鹿子木楓)
下 一番右は        アサノハカエデ(麻の葉楓)


  

 新緑の モミジ カエデ群

 

 紅葉の モミジ カエデ群
 これは
 上の新緑の切り絵と全く同じ配列で切ってみました
  
 ”緑葉も 時が経てば やがては紅葉に”
  時の移ろいという感覚で 切り絵に仕立てました


 錦秋の秋 そこまで来ましたね
  

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2015年10月17日

地名由来のブラナガノ  長野駅の巻 4

明治5年1872年 新橋-横浜間開通 (汽笛一声 新橋を♪♪♪)
と 胸躍る(かっこいい)鉄道唱歌があります

しかし 時の政府が真剣になって考えていたのは
中山道鉄道の計画を実現させることでした  

日本の東西を結ぶ鉄路は 東海道路線よりも中山道路線にしよう…

なぜなのか?

  ① 東海道鉄路だと 万が一欧米諸国の砲弾に晒されれば
    日本は壊滅的打撃となる
  ② 日本の誇る海上輸送網はしっかりとしているため
    東海道の鉄路は必要ない 

そして 明治18年1885年 海から資材を運び入れて
中山道鉄道実現のために 直江津から鉄道工事が始まった

 が しかし

険しい山岳地帯を通ることは 工事も難しいことがわかり
中山道案はボツになり 東海道案に戻されることとなる

それでも 信越鉄道工事は進められました

日本海と首都圏とをつなぐ 重要路線と認められ
体力の源 新潟の米  は 大事
国力の源 新潟の石油 は 欠かせない


明治21年1888年5月 直江津ー関山ー豊野ー長野と開通
(長野ー直江津間3時間25分)

源田窪(げんたくぼ)と言う地籍の駅舎建築候補地を掘ると
裾花川の大石がゴロゴロ
これは ”天然の土台”として 駅舎築造に貢献したらしい 

同年8月には 上田まで
同年12月には 軽井沢まで
明治26年1893年 碓氷トンネル開通 上野まで10時間で到達に

そして 長野駅前は 善光寺参詣者でにぎわうようになり
善光寺門前から 多くの旅館が 駅前へと
支店を出すようになりました
五明館 藤屋 池紋 青木屋 山屋 ほか 

①駅を中心に末広がりに発展しよう
②上野駅前で繁栄している末広町同様に 長野駅前も末広町に倣おう
③末広は未来にわたり縁起がいい地名だ


こうして 長野駅前 末廣町が誕生しました

 
  
    

       昭和30年代 仏閣型長野駅
    
    

       昭和40年代 末廣町から長野駅を見る
    
   

       明治時代 駅前から末廣町を見る  
       左 五明館   右 藤屋

   

    昭和30年代   駅前から末廣町を見る    続く  

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2015年10月10日

地名由来のブラナガノ  長野駅の巻 3

旧長野市は
裾花川 と 浅川 の流れの扇状地に乗っかって
なだらかな 坂の上にあります

南の方に 犀川
これは 川中島 ・ 旧長野市南部を形成
形成したと言いましても 氾濫・洪水の繰り返しの地の上です

長野盆地の東側を 北へと流れゆく川が千曲川
名前の通り
流れが千も曲がりくねったり
千の淵とか澱みを作ったりの暴れ川でした
篠ノ井・松代・更埴はこの川と共存してきました

全体的には 裾花川や犀川の圧力に押されながらも
流れの行先を模索しつつ
北へと流れているのが千曲川です

ここに 鉄路敷設場所決定のヒントがあります

 

 レールを敷く 何処に敷く?
 千曲川の氾濫地で大丈夫か? 

 敷いたら敷いたで 洪水防止の堤防を築造しなくてはならぬ
 鉄道敷設には そんな工事は余計な二次作業だ

 汽車は煙を吐く これが通れば煤がでる  
 空気が汚れる?  
 オラっちの田圃が汚れるんじゃあ嫌だ

 日本海と江戸を結ぶ北国街道は昔から要の運搬道
 善光寺にも近い
 なだらかな野原が広がる最適の地はどこ?  等々

 長野町 対 松代町 の川東・川西論戦展開

 善光寺を中心とした商都NAGANO 対
 十万石、十代続いた真田氏の城下町 MATUSIRO

 誘致と請願と宣伝とが繰り広げられた

 官庁への請願 
 一般向けの演説会

 結果 技術的な問題ありとして
 明治19年1886年春 長野町を通ることとなりました

 場所についても
 川に邪魔されない地盤とのバランス
 北国街道沿いとのバランス
 善光寺界隈とのバランス 等々

 選定には1年ほどかかりました 
  以上が 初期の誕生秘話です



           提供:公文書課



     正面は 長野駅
     右側は 五明館 食堂部


     仏閣型長野駅 昭和30年代

       続く  

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2015年10月04日

地名由来のブラナガノ  長野駅の巻 2

 長野駅をどこに造るか の悩みを語る前に
 
 北国街道、北国脇街道のお話をしておきましょう

 北国街道は越後・加賀方面から 長野善光寺を経由し
 追分中山道に合流して江戸へとつながる重要路でした

 もうひとつの 北国脇街道は
 千曲川の氾濫に備えた道  あるいは
 松代・長沼の城下町が繁栄するためにと築道され

 牟礼の三本松から分岐して
 神代ー矢代とつなぐ道です


 

   重要なポイントは  矢代:やしろ (現在 屋代) と
              神代:かじろ (現在 豊野) です


  昔は川が増水すると 橋は流され
  前進できず
  何日も逗留を余儀なくされました

  善光寺もお参りできない
  江戸へ 佐渡の金銀が運べない
  参勤交代ままならない  …


  たとえば 加賀前田公の 参勤交代の際
  その列の先頭が 坂木( 現在 坂城 )
  後列が 大雨に遭って 
  丹波島、矢代で足止めされたとのお話があります
 

  江戸から歩いて来た人は
  千曲川増水の際は  
  矢代で右へ迂回し
  千曲川を渡らずに その東道を通って北上しました 


  また 神代では
  天正11年(1582年) 越後上杉景勝が「横道を通らないこと」の
  通達を出しています

  松代や 長沼の 城下町を保護するためとかで
  一時は横道(つまり 北国街道)が寂れたとの
  言い伝えがあります

  森忠政 松平忠輝ら歴代松代城主も 横道禁止を
  うたってきました

  時は近代に 飛んで
  長野駅を造る際は 「千曲川の東道も考慮せよ!」との
   ヒントが ここにありました

  直江津から豊野まですんなり鉄路が通ったのに
  そこから先が決まらない               次号
  
    

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2015年10月01日

地名由来のブラナガノ  長野駅の巻 1

長野市街地を駅から善光寺まで
ブラブラ歩いてみましょう
 
地名由来を探る 「旅」の開始です


「旅」と言っても  4種ありまして
ジャーニー
ツアー
トリップ
トラベル

トリップに近い感覚で LETS GO!

ジャーニー ⇒ 流浪  予定が決まっていない
          どこでもいいから行く
ツアー    ⇒ お参り  研修
          目的が決まっている
トリップ   ⇒ ちょこっとおでかけ  お散歩  徘徊
          当人が行かなくても行ったつもり
トラベル  ⇒ スケジュール・時刻まで計画的に決まっている

まずは国鉄長野駅の歴史から



  明治21年 1888年 長野駅開業の風景
  左は 木造平屋建の 長野駅
  右の瀟洒なつくりの建物は  五明館

  駅から降りた旅人が 列を作って
  五明館の食堂へ入っていく様子です

  (写真出典は市公文書課)
  二代目 長野駅 まだ明治時代です

  そもそも 長野駅が どうしてここに建ったのでしょう?

  一面田畑の裾花川の扇状地は大丈夫?
  北國街道沿いは最適?
  善光寺のおかげ?
  千曲川の東を通すプランは?
  松代真田家の影響は?

  直江津から 豊野までは 線路が決まりました
  そこから 南方の
  善光寺平ルートは難航したのです
 
  それには深い歴史がありました   次回へ
    

Posted by babatrain at 09:10Comments(0)